チビ太とユキとコツ

犬を放して二時間ほどが経った。猟友Yの一番犬であるチビ太は二回ほど鹿に付いて、どちらも一山をぐるりと回って帰ってきた。
我が家のユキはチビ太のあとを100mほどは付いて回るがそれ以上に距離は延びない。
Yに言わせれば、それは使い方が足りないためで、チビ太と一緒に使っていればそのうち距離が延びるだろうとのことだ。
Yの犬にかける造詣は、私が山にかけてきたそれよりもさらに、底の知れない深層の、なにか淀みのようなものがあって少し怖い。その猟には犬と豚(猪)の獣としてのやり取りを、どこか楽しむような不気味な気配がある。だが私はそこには触れがたい。
単に朗らかに、明るい雑木林の中で豚のアシ(足跡)や食み(ハミ)を追うのが静かに楽しい。やがて猟の深淵に触れざるを得ない時が来るのは、予感だけはたしかにある。たがそれは予感だけでいい。獣たちはいつも予感だけを残して去っていく。そして時に遭遇もある。その遭遇の時のためにどれだけ予感していられるか、そこにかかっている。この感覚は刃の上を素足で渡るような、妖しい感覚である。
この日は強い冬型の気圧配置で風が強かった。私たちは豚の寝そうな日溜まりの、風の止まったような斜面に狙いを定めて静かに歩いた。伐採斜面が現れてその回りに張り巡らされた獣害防止ネットを潜り抜けるとモノ(獲物)の気配が凄かった。ネットのキワは太い筋になっていて、縦にも横にも国道クラスの踏圧だった。そして再び雑木林に入るとやや気配は薄くなった。次はヒノキの暗い植林帯。いかにも寒そうな日陰に豚が寝るとは思えないので、やや気を緩めて横断する。
ヒノキの植林の切れ目がわずかに見え、その先にコツ(岩場)が見えた。Yはコツを上から巻くように、筋をトラバースしている。私は言葉を交わすこともなくコツに続く棚を選んで歩いた。チビ太はYに引かれるように先行し、ユキはチビ太に続いた。
後でわかったことだが、この時コツの上の棚で豚が寝ていた場合に、下へ飛んだ豚が私にかかる(射程に入る)と踏んでYは私から離れたらしかった。
ヒノキの切れ目で突然上下の筋が濃くなり、コツが踊り場のようになったところで私は止まってYに声をかけた。
「なんかここはめちゃ濃いんだが」
結果的にこの声は致命的にまずかった。
目の前にはコツの棚へ明瞭すぎるほどの筋が続いていた。
なにかが相当に近い。
コツに踏み込む前に、私は急に小便がしたくなった。横にあった藤の根が平らになったところに銃を立てかけて、私は小便をした。その小便が終わるか終わらないかのところで「ドスッドスッ」となにかが駆け降りてくる音がした。大型犬の部類に入るチビ太が飛んで降りてきたかなと、一瞬思った。音のした方を向いた刹那に豚が飛び出して来ていた。即座に背後に置いた銃を拾って構えたときには、豚はわずかにコツの段下に隠れた、ように見えた。今思えばこれが引き金を引く最大のチャンスだったがそれを私は逃した。そして私から過ぎ去る形でヒノキの林に入った。射撃ラインには豚の手前に数本のヒノキが入って射角はごく小さくなってしまったが、これが最後とスコープ越しに狙いを定める間もなく一撃。すっ飛んでいる豚にカスるはずもなくもう一撃、と思ったがこれは発射されなかった。今日はボルトアクション(自動銃とは違いボルト操作無しには連射はされない)なのだった。
なんだかよくわからない声をあげ、ヘナヘナとその場に崩れ落ちた。数秒してチビ太が凄い勢いで豚のアトを追っていった。
しばらくしてYが降りてきた。
「エラい楽しそうだね」
私の悪態をしばらく聞き流してから、Yは全体の解説に入った。
風が強くてチビ太が豚の匂いを取れなかった、豚の寝屋への侵入経路が私とは逆方向だったためチビ太が気づくのが遅かった、私の声で起きた豚がチビ太の鈴の音で飛び出したか、あるいは小便の匂いで飛び起きたか。
20分ほど豚を追って二山ほど越えていった後にチビ太はようやく戻ってきた。太ももあたりに軽い擦過傷を作っており、おそらく豚にマクられた(牙で突き上げられた)のではというYの考察だった。豚は少なく見積もっても90kg級で、足はチビ太の方が速いと思われた。
その間じっくりと豚の寝屋を観察した。K山の中腹のかつての噴火口であるのが帯状に露岩帯があり、それがこの場所ではちょうど良く東南を向いていて風を完璧に遮っていた。豚の寝床は乾いた落ち葉が吹き溜まり、底がくっきりと重りを載せられたようにつぶれていた。背後の岩の輻射熱もあって、ふかふかのベットと暖暮付の超優良物件と言えた。
「こんなのがいりゃあとは雑魚か鹿しかいないな」
私は大猪を眼前に逃してフラついたようになりながら、この場所を地図上に寝屋登録した。
声を出さず、小便もせず、構えを保ちながら侵入していれば。
チビ太に気取ったのか、なぜ豚は反対ではなく私の方に飛び出してきたのか。
獣とのニアミスはいつもそうだが、豚も犬もなにも語らない。犬の顔色、豚の逃走経路、この時期オスが追っているはずのメスの居場所、寝屋に入る前の糞の形。
Yは理科系で物事を理詰めで考えている。
「詰将棋みたいな感じ」
「外したから詰んでないけどね」
私の踏んだ地団駄は沸々と次の猟欲に変わるだろう。
風の強い日に再びこの場所をそっと訪れたい。
そこでフッとチビ太を放してみる。豚がコツを背中に籠城して犬とやり合う。チビ太が隙をみて豚の耳を噛み、動きを食い止める。ユキが吠え立てて豚の剣幕を負かすべく加勢する。おもむろに私は銃を構える。

源流と雪山ガイド「霧の旅」

源流ネイティブトラウト テンカラ:ルアー:フライフィッシング アイスクライミング 雪山:狩猟 ガイド

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