シャッターチャンス
心が穏やかな方向に動いたときには、その景色を納めたいと思えるようになった。
それは人とカメラの長い付き合いの、ごく始まりの部分であろうから、ようやくその境地かと笑われそうで怖い。
そのような自然の造形に気づけたときならば、そしてそれを思う自らを客観視して、写真として納めたいと思えたならば、欲目ではなく、そのときの心の持ち様が良いものだったことに違いないのだ。
私はそれを忘れたくない、それくらいの年齢にもなってしまった。
だから私は水の上でもあえて、スマホを慎重に防水ケースから取り出すのだと思う。
この写真はただなる蜘蛛の巣の造形であるが、消えかけた夜露に朝日があたり、逆光で糸目の一本一本までが鮮明に見えた。
それがきれいだった。
もちろん稚拙な写真はそれを半分ほども表現してはくれない。
そして蜘蛛の巣の下には魚がついていた。
私は遠矢からそれを丁寧に毛鉤で叩き壊してからそのポイントに、同じ毛鉤を落とす。
あの眼にも鮮やかな俊敏な仕草のイワナに襲われるとしたら、喰われた虫も本望ではないかと想像するほかない。
水という棲み家に依存しつつ、限定されつつも。
水という流体の中には真の自由があるのではなかろうか、といつも思う。
岩の下の暗いねぐらで昼寝を囲いつつ、流れ来る哀れな羽虫たちに猛然と襲いかかりたい衝動が、私にもあるのだと思う。
そのような穏やかな気持ちで魚止めを見て、下山まで何事もなく行くと思いきや、夕立に会い全身濡れそぼる。
おまけに茶毒牙という毛虫の針にやられ猛烈に全身が痒くなった。
穏やかな気持ちもどこかに消え、しばらくは痒みに悩まされることになった。
そうなると私にはシャッターチャンスは訪れない。
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