二本杉

半日以上もゴルジュの泳ぎを続けてそろそろ「二本杉」という地名である、というところまで来た。
あたりに杉は一本もなくただ急峻な側壁が連なるばかりであり、時おり緩傾斜があると思えばブナの大木が枝を張っていた。

その場所は忽然と現れた。
探す必要がなかった。
天の恵みのような不思議に小さくまとまった平らな空間で、僕は是非ともその場所に一夜を過ごしたかったが、行程の都合上それは叶わなかった。
その杉は、この場所にゼンマイ小屋を掛けた人の手が植えたものに間違いなく、黒々とした端正な樹形はこの延々とゴルジュの続く単調な沢にあって、古人がつけた狼煙のような目印に違いなかった。
修験道にある焼けつくほどの精神性の発露はこの山にはなく、ただ藪に埋もれようとする古人の生活の跡だけが、静かに忘れ去られようとしていた。
宗教や権力の彩色を持たないかつての庶民の生活の様々が、私には燃え残る榾火のように淡く熱く感じられ、一層沢旅に旅情を添えるのだった。
「貧しきものは幸いなるかな」
米と味噌を背負い、この場所でゼンマイを揉んだ夫婦のこと、山で生き続けるその自尊心と、山の恵みに生かされる畏敬の念。
その人々を生かし続けた大いなるものはなんであろうかと、僕はいつも問い続ける。
彼らが植えたはずの杉は、今やゼンマイ小屋のあった地面を全て占めるほどに成長した。
もう小屋を掛けるほどの空間は、そこには残っていない。




源流と雪山ガイド「霧の旅」

源流ネイティブトラウト テンカラ:ルアー:フライフィッシング アイスクライミング 雪山:狩猟 ガイド

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